昭和42年8月7日 夜の御理解


 信心させて頂く者は、何事も信心になれよと。何事にも信心にならなければ。とりわけ、たとえば神様の心に叶う様にと言うことは、叶う様にと思っていても、叶わない場合がございます。けれども、これだけは実行したい。それは良心的であれと言うこと。神様の心には叶っていないかも分かりません。人間、生身を持っておる凡夫でありますから、それこそあい分かりません。どこに御粗末、御無礼があるやら分かりませんとお詫びしていかなければなりませんけれどもです、もうはっきり自分の心に良心的に信心をしをってこんな事じゃいかんと自分の良心に引っ掛かるような事では絶対、神様に通いませんですね。
 皆さん、ここの所をですね、どうぞ一つおかげを頂いていかなければなりません。良心的でななからければ、自分の良心に恥じない生き方。これは信心のない人でも、それを申します。良心的な商品とか良心的な商いをするとか。良心的であるとか。信心さして頂く者が、良心的であるという事は、私、今申しますように、信心する者は、何事も信心になれよと言う御教えに通うのです。通じるのです。ですから信心していてから例えば、そのような心に掛かるようなことをして神様に通うはずがありません。だからこれがいうなら見易いでしょうが。神様の心に添うようにと言うことは、ひょっとして添わない事があるかも知れません。そこんところは御粗末、御無礼として詫びていく。凡夫のことでございますから、どこに御粗末、御無礼があるか分かりませんというお詫びに撤していく。けれども、自分でははっきり悪いという事が分かっている。
 まあ、商売をするなら、呉服屋さんとするなら、反物に傷があるということは分かっておるのに傷を隠して知らん顔をして売る。これは非常識。ですからですから、そういう事がですね、悪いことと分かってする。そういう事では、これは絶対神様に通わないです。ですから私ども信心させてもらうものは、教えに忠実でなければならないと、何事も信心にならせてもらわなければならない事。勿論です。けれども、自分の良心の呵責とまではいかなくとも、悪いことを致しましたという良心の呵責。自分の心から自分が攻められる。
 教祖もそこの所を用心せよと。心の鬼が我が身を攻めるぞ、と仰る。自分の心が自分の身を攻めるのです、ね。「火の車、作る大工はおらねども 己が作りて己が乗るなり」これは非良心的な事ばかりしているものは、火の車をもう作っていきおるようなもの。おかげの受けられない世界に自分から入っていきおるようなものです。良心の呵責とまで行かなくともね。とにかく自分の良心を持って、これが本当だ。これはこうあるべきだという事だけぐらいは、信心させて頂く者は守らなければ、神様にご祈念しても通わない。非良心的なことが平気でなされているような事では、信心になりません。 今日は私、何事も信心になれよと仰ることを、良心的であれというところに絞ってお話しましたね。自分の良心、自分の良心に言わば恥じない生き方だけは一つさせて頂かなければならないという事でございますね。どうぞ。